私と鉄道模型の60年(14)–松本謙一 米国型HOnの世界その1


私と鉄道模型の60年(14)- 米国型HOnの世界その1





ナロー・ゲージの鉄道模型とその変遷(1)—松本謙一(日本鉄道模型リサーチ‐A.B.C.)





筆者が最初に入手したHOn3モデル―鉄道模型社製K-28

「なんとかHOn3モデルを手にしたい」と探し回った末、東京オリンピックの年、中学3年であった1964年にとうとうチャンスが巡ってきた。Trains誌などで実物の写真を見て憧れていたDenver & Rio Grande Western鉄道のK-28クラス。その複式コンプレッサーを片寄せて煙室前面に置いた、独特の姿を、今は伝説の、鉄道模型社の店頭に見つけたときは、膝が震えたものだった。父のデザイン工房から持ち出した小型コンプレッサーにSクマ印のマメラッカーで塗装を試みたものの、下回りを分解する度胸がなく、そのままになった。当時はディカールが日本で入手できなかったので、ポスターカラーでナンバーを書いた。懐かしい思い出なので、いまだに塗り替えられずに置いている。



ナロー・ゲージの模型化を語るとなると、どうしても鉄道模型の歴史にまで遡る事になります。



鉄道模型の最初の用途は、今日のようなモデラーの愛玩物ではなく、「鉄道」という産業革命の新インフラを普及するためのサンプルでした。わが国に最初にやってきた鉄道模型も、かのペリーが浦賀へ来航した時に、西洋文明の象徴として持参したライヴ・スティーム列車一式が、姿の判っている記録の最古です。(本当の最初は、その少し前にロシアの使節が函館へ持ち込んだもの、という説がありますが、これは詳細やその後の様子は判っていません)



そういう時代から1920年代までは、鉄道模型といえば、すなわち「車輛模型」であり、「縮尺」というもの自体に統一性を持たせる。という発想は必要ではありませんでした。



アマチュアが模型を持ち寄って遊ぶにも、線路の幅さえ統一されていれば、まったく問題はなかったのです。その名残は、今日、ライヴ・スティームの世界にそのまま生きています。標準軌の大型機も新幹線も、軽便のコッペルやバグナルも、同じ5インチ・ゲージの線路の上を走っています。「線路の幅の統一こそ規格。車体はそれにバランスした寸法で適宜作ればよい」という、いわば「ゲージ規格」で、ヨーロッパを中心に、この考え方は普及しました。鉄道模型が趣味の対象として芽生えた大正末から昭和初頭の日本もこれに倣いました。



しかし、1930年代に入って、米国で電動の鉄道模型が大衆化しますと、その関心は車輛以上に、Railroadingすなわち鉄道の運行や経営を再現する、という、いかにもあまたの鉄道王を生み、数十万の移民をその建設現場が受け入れた国らしい遊びに変貌します。電動模型の小型化が可能になったことで、室内に「レイアウト」という、野山、建造物を再現し、そこに列車を走らせる時代が来たのです。



しかし、そうなると、建築限界や建造物、人形の縮尺を統一しないと不自然、という問題が初めて浮上しました。ここに米国起源の「縮尺を統一することがすなわち規格の根本」という「スケール規格」が生まれたのです。しかし、その当初は、「鉄道」といえば、一般には都会で普通に目に付く、スタンダード・ゲージを意味し、模型化の対象もあくまでもスタンダード・ゲージでした。



ところが、1930年代、乗用車の急速な普及は全国的にナロー・ゲージ鉄道の衰退、消滅をもたらしました。それを惜しむ鉄道ファンたちは懸命にその姿を写真に記録しようとし、やがてそれをスケール・モデルでも姿をとどめようとする動きが生まれました。事実、それは小型レイアウトにも向く短編成、小列車の世界であることも認識されたのです。



私に知る限りでは、ナロー・ゲージの模型化作品が鉄道模型の商業専門誌に登場した最初の記事はModel Railroaders誌1941年3月号の、Hugh G. Boutell(ヒュー・ボーテル)によるOnのアルコール焚きライヴ・スティームです。そして、同じ年の9月号には、当時の先進的HOモデラーの一人、Carroll WeisによるHOn3のColorado & Southern列車のスクラッチビルト作品が発表され、同じ号にHOn3=10.5mmゲージの規格も紹介されています。アメリカが第2次世界大戦の当事者sとなる3ヶ月前でした。



第2次大戦が終わり、鉄道模型にも、疲弊したヨーロッパ諸国と、世界経済のリーダーに躍り出た米国の差が一挙に拡がります。これは「スケール規格」すなわち「統一縮尺の下、ナローを別ゲージで作り分ける」がいよいよ世界舞台に躍り出たことを示します。米国では西海岸の先覚的なモデラー・グループがナロー・ゲージへの取り組みを始め、On3においてはCliff Grandt(クリフ・グラント)、HOn3においてはJohn Allen(ジョン・アレン)がその旗手を務めました。



日本においては月刊『鉄道模型趣味』がようやく16番を軌道に乗せた時期で、主幹の山崎喜陽氏は戦前からのMR誌愛読者であっただけに、「ゲージ規格」=「異なるゲージ、車体サイズを、縮尺を変える事で一つのゲージに合わせる」を採る「16番」と、新興で魅力溢れる「ナロー」を、どう整合させるか、はTMS誌にとっても悩ましい問題であったろうと推測されますが、ジョン・アレンのレイアウト、「G&D鉄道」の紹介あたりからHOn3がHOに併設される様子などを解説して、一つの縮尺の下、異なるゲージを作り分ける楽しさを読者に浸透させていきました。



アマチュアとしても、ヒュー・ボテールの影響を強く受けた角倉彬夫氏のOn2.5作品「イプシロン鉄道」、やや遅れて和久田恵一氏によるHOn3作品などが誌面を輝かせ、小、中学生の少年モデラーにさえ、「ナローをやるのが高級モデラーの証」という憧れを抱かせたのでした。昭和30年代、ちょうど私が鉄道模型についての基礎を学んだのは、こういう時代で、TMSがその真価を大いに発揮した時期でもありました。あの時代のTMSは本当に、多くの少年に、欧米レヴェルについていけるほどの凄い知識を注入した、と思います。



それが下地となって、昭和40年代の若いモデラーの間の一大ナロー・ゲージ・ブームを呼び、今日のModels IMON、杉山模型、ワールド工芸までのHOナロー製品への支持、「軽便祭」の衰えぬ盛況につながっています。



私においても、小学校の高学年から中学、高校に掛けての、ちょうど東京オリンピックの少し前からあたりが、「ナロー熱」に取り付かれた時期でした。そのころから飛び飛びではあるが買い始めたMR誌の裏表紙広告にはPFM-UnitedのD&RGW K-27と木造オープンデッキ客車編成の大判写真が出、西武デパートの鉄道模型売り場にはドイツからエガーバーンのHOn2.5トロッコ・セットがやってくる、など、モーターの小型化によって製品的にも「ナロー時代」が開花しました。



こうなると「高級モデラーの証」としての「ナロー」が欲しくて居ても立ってもいられなくなりましたが、当時はPFM-United製品は輸出専用、国内では入手の道は無く、悶々としていたところへ、御茶ノ水の順天堂病院のならびにあった「鉄道模型社」にHOn3製品が出ている、という情報を聞きつけました。



世の中が東京オリンピックの話題で持ちきりの年でした。いまでも覚えていますが、鉄道模型社へ駆けつけたのは、もう日暮れどきで、水道橋駅の方向は空が茜色に染まっていました。照明の薄暗い店内のショウ・ケースに未塗装の真鍮地に輝いていたのはD&RGW鉄道のK-28クラス.。外側主題枠の2-8-2で煙室正面に複式コンプレッサーを片寄せた姿がいかにも「俺は西部のナローだぞ!」と肩をいからせているようでした。



私と現物のHOn3モデルの最初の出会いでした。実は今回、この記事をまとめるに当って調べ直しましたら、この鉄道模型社製K-28は、後年PFM最大のライバルとなるWestside Modelsの最初の製品でした。のちにWestsideは日本国内のメーカーではHOn3製品の製作に中村精密、水野製作所などを使い、PFMのような厳重な生産管理方針を採りませんでしたので、1970年代になると、これらの製品は比較的多く、国内市場に流れました。ちょうど、天賞堂でもLaBelleの木製キットでHOn3の客貨車も輸入するようになりましたので、その時点でようやく日本でも一般のモデラーがHOn3の世界を楽しむことができる状況になり、私が月刊「とれいん」で紹介したことも手伝って、「ウエスタンだ、サザンだ、C&Sが佳い!」という会話が、天賞堂やさかつう、珊瑚模型店、篠原模型店などで楽しまれるようになったのです。



HOn3ブラス・ロコの製品史はモーターの小型化の歴史でもありました。最初は、モーターがなんとかボイラーに入る2-8-2が好んで製品化され、小型機はテンダーにモーターを積んで、機関車側へジョイントで回転を送る方式。次には、小型機でもなんとか機関車側へモーターを積む試み。それがやがて、小型機でもキャブ・インテリアの内側にモーターを納める挑戦となり、今日では、ボイラー内へDCCの車載装置まで収める時代が来ています。半世紀近くのHOn3製品の展開を眺めてきた者には、まさに隔世の感慨を禁じえません。





■米国のナロー・ゲージ鉄道分布



日本では米国のナロー・ゲージ鉄道といえば、ロッキー山中の3フィート・ゲージ鉄道にイメージが直結しがちですが、1920年代以前に遡りますと、全国的にナロー・ゲージ鉄道は普及し、街と村を結ぶ地方交通機関として、また原材料を大自然の真っ只中から搬出する産業鉄道として、また、有事に世界各地に展開できる軍用鉄道資材として、大きな役割を果たしていました。



ゲージも3フィートだけでなく、2フィート、それに日本と同じ3フィート6インチも存在しました。3″6’ゲージの最大のものはロス・アンゼルス市電でしたが、南部の林業鉄道にも採用していた所があります。国は異なりますが、カナダのニュー・ファウンドランド島のカナダ国鉄もつい先年まで3’6″ゲージでした。米国でかつて、ナロー・ゲージ鉄道が繁盛した地域の主なものを東から西へ挙げますと;




●Maine州の2フィート・ゲージ群

港町ポートランドを囲むように、1920年代までいくつかの2フィート・ゲージ鉄道が盛んに営業していました。ダックスフントのイメージそのままに、小さい車輪径に胴長車体の客貨車を0-4-4Tや2-4-4Tのフォーニー・タンク機が牽引し、緑の丘陵地帯を巡っていました。サンディー・リヴァー・アンド・レインジリー・レイクス鉄道(SR&RL)はその代表です。



●アパラチア山脈の3フィート・ゲージ鉄道

ペンシルヴァニア州でペンシー本線まで石炭を搬出しており、今日も保存鉄道の老舗として残っているイースト・ブロード・トップ鉄道(EBT)が代表的存在ですが、ほかに同様な鉄道として、イースト・テネシー・アンド・サウス・カロライナ鉄道というのも戦後まで3フィート・ゲージで運行していました。また、ウエスト・ヴァージニア州の森林鉄道にも3フィート・ゲージのクライマックスやハイスラーが働いていた例があります。




East Broad Top No.16

Pennsy本線のMount Unionから南方のOrbisonia、さらにアパラチア山中の3方向に、最盛期は総延長51マイルの路線を持っていた3ft.ゲージ運炭鉄道で、Baldwin製の2-6-2、2-8-2を10台前後保有していた。貨車はスタンダード・ゲージのものを相似形に縮小したような鋼製ホッパーが主であったが、客車は対照的に、木造オープンデッキの美しいものを揃えていた。写真のモデルは、東部ものを得意としていたインポーター、Gemが1964年に、日本のSeikoに造らせたHOn3製品。Seikoについては詳しくは判っていないが、設計手法や使用部材から見て、オリンピア精密のグループであった気配を感じる。




●コロラド州を中心としてロッキー山中の3フィート・ゲージ鉄道

この地域はなんといっても米国ナロー・ゲージのメッカで、今日でも保存鉄道としての運行が繁盛していますが、かつてはコロラド州全域をほぼ一周し、南はニュー・メキシコ州のサンタ・フェ市までも路線が伸びる「ナロー・ゲージ・サークル」が形成されていました。最大規模はデンヴァー・アンド・リオ・グランデ・ウエスタン鉄道(D&RGW)の3フィート・ゲージ線ですが、それに接続するリオ・グランデ・サザン鉄道(RGS)も素晴らしい沿線風景で幾多の名場面を遺しています。これらは主にロッキーの西側に展開しましたが、東側ではデンヴァーから直接出て、近郊交通と鉱石輸送に活躍したコロラド・アンド・サザン鉄道(C&S)が、その保有する小型2-6-0や2-8-0を、独特の集塵煙突(リッジウエイ式スパーク・アレスター)で有名にしました。少し南へ下がったところのフローレンス・アンド・クリップル・クリーク鉄道も鉱石運搬鉄道で、短命でしたが、美しい4-6-0や2-8-0はリオ・グランデ両鉄道に引き継がれ活躍し続けました。ちょっと異色ですが、ユタ州に跨る地域に75‰という急勾配で、HOに換算すると、300Rという急カーヴの路線を敷いた、ユインタ鉄道(URY)も2-6-6-2Tのタンク・マレーで有名です。






Denver & Rio Grande Western K-36

コロラド州を中心とするロッキー山中に一大路線網を築いた米国ナロー鉄道の代表的存在。輸送規模も米国のナロー・ゲージ鉄道としては最大で、日本の「弁慶号」サイズの小型2-8-0から、D51よりも太いボイラーを持つ2-8-2まで、機関車の顔ぶれも多彩。写真のモデルはPFM社が1977年に日本のフジヤマに造らせたHOn3製品。スノー・プラウは別のインポーターの製品を平井憲太郎が取り付けたもの。実機は1925年にBaldwinで10輌新造された。よく似た形式に、古いスタンダード・ゲージの2-8-0からボイラーを流用したK-37クラスがあるが、テンダーが古風な朝顔スタイルで、ドームも段付き、というところでK-36と識別できる。K-36、K-37共に、PFM-フジヤマ、Westside Models-中村精密がHOn3モデルを競作しており、いずれも優れた製品と評価できる。中村精密がのちにPSC向けに再生産したモデルはコアレス・モーター搭載で、走行、出来栄え、両面で秀逸といえる。



●カリフォルニア州北部の3フィート・ゲージ鉄道
シエラ・ネヴァダ山脈の東側、オーウェンヨー・ヴァレーの砂漠にはかつて、巨大鉄道サザン・パシフィック(SP)直営の3フィート・ゲージ線が存在し、1950年代まで小型ながらSPスタイルのホエール・バック・テンダーを持つ4-6-0が活躍していました。シエラ・ネヴァダの西側は一転して大森林が広がり、こちらにはいくつもの森林鉄道が見られましたが、その中には3フィート・ゲージのものも存在しました。その最大かつ有名なものはウエストサイド・ランバー・カンパニー(WSL)の専用鉄道です。






Southern Pacific No.9

あの“デイライト”、“キャブ・フォワード”に象徴されるSouthern Pacificが、同時に直営の3ft.ナロー線を持っていたのだから、米国の鉄道は面白い。モハーヴィ砂漠の北端、シエラ・ネヴァダ山脈の東側に展開するオーウェンズ・ヴァレイにあったKeeler支線がそれで、鉱物と家畜の運搬で、1960年まで存続していた。蒸機の通常使用は1954年までであったが、Nos.8、9、18の3台の4-6-0が活躍し、その後も2台が最後まで予備機として残って、現在も地元に保存されている。Harrimanスタイルのキャブに、“ホエール・バック”と呼ばれる蒲鉾型オイル・テンダーを配したSPスタンダード・ゲージ中・小型機をそのまま縮小した姿が愛らしいことから、“スリム・プリンセス”の仇名で親しまれ、幾多の鉄道写真の名作を遺している。HOn3での製品化はNo.9を1965年にPFM-ユナイテッド(実際の製造はアダチ製作所)が手がけている。Westside Modelsも1965年から1969年に掛けてNo.8、9、18を水野製作所に造らせているが、こちらは実験的にキャブをロスト・ワックス製としたため、鈍重の感は否めない。写真のモデルはPFM製品で、簡潔ながら品の佳い出来栄えは40年以上を経た今も色褪せない。




Sumpter Valley Nos.250 / 251

Sumpter Valley Railway(SVR)はオレゴン州東部、ブルー山脈の森林資源を利用するべく、1892年に創業した3ftゲージ鉄道で、当初はユタ、アイダホのUnion Pacific鉄道が運営していた3ft.ゲージ路線がスタンダード・ゲージ化されて余剰になった車輌を再使用していたが、1940年にコロラドとユタの州境で運行していたUintah Railwayが廃業したことから、同鉄道の最後の主力機であった2-6-6-2T、2台を買い取り。これをテンダー機に改造したことで、一躍、「米国最大のナロー・ゲージ機関車を所有する鉄道」となった。鉄道は1948年に森林の伐採制限から廃線となったが、2台の連接機は中南米グアテマラのInternational Railways of Central Amerikaに転売されて、1960年代まで働いた。模型製品化は1966年、PFMとユナイテッド/アトラス工業のコンビで手がけられ、同じものが1968年にも再生産された。このときの製品はサンド・ブラストの掛け過ぎでひずみが出てしまい、モーターも性能不足が否めなかったが、1978年にキャブ・インテリアつきで3度目の発売が行われたものは、罐モーター使用で、組み立ても丹精込められ、面目を一新している。同時に、原型であるUintah2-6-6-2Tも製品化された。両者とも数輌はそこそこ生産されたのに、中古市場ではなかなかお目にかからないモデルになっている。



●アラスカ州ユーコン地域の3フィート・ゲージ鉄道

米国がロシア帝国から捨て値同然で譲り受けた不毛の地でしたが、ユーコン地区に金銀が発見されると一躍脚光を浴び、港町スキャグウェイからカナダのユーコン郡ホワイトホースまでの3フィート・ゲージの鉄道が敷かれ、ホワイト・パス・アンド・ユーコン鉄道(WPY)と名づけられました。第2次大戦中には鉱物資源輸送と陸軍基地、という戦略的価値から米陸軍の直轄鉄道となり、全米から余剰のナロー・ゲージ機関車が多数持ち込まれました。近年までデーゼル機関車で輸送が続いていましたが、トラックに切り替えられ、いまは海寄りの一部区間だけ保存鉄道になっています。



●ハワイの3フィート・ゲージ鉄道群

アラスカとともに、合衆国49、50番目の州となったのは第2次大戦後ですが、ハワイ王朝時代の1890年に早くもオアフ島に鉄道が登場しています。これが3フィート・ゲージのオアフ鉄道(OR&L)で、のちに島の東側を約半周する本線に若干の視線を加え、絵総延長93マイルに30輌近い蒸機を保有する一大鉄道に発展しています。この鉄道の車輛にも美しいものが多いのですが、製品は存在しませんでした。ただし最近のDivision Pointの製品予告リストに2-8-0が含まれています。そのほかに、オアフ、カウアイ島、ハワイ島、マウイ島にはかつて砂糖キビ農場の3フィート・ゲージあるいは2フィート6インチ・ゲージの専用鉄道が相当数設けられ、ボールドウイン製0-6-2Tサドル・タンクをはじめ多くの軽便級蒸機が働いていました。その1台は来日して日光ウエスタン村で使われましたが、今は休園となってしまいました。



このほか、サウス・ダコタ州のブラック・ヒル地域やアリゾナ州各地の鉱山鉄道、オレゴン州で運材と地域交通の役目を果たしたサンプター・ヴァレー鉄道などの3フィート・ゲージや、サウス・カロライナ州の砂糖キビ農場の専用鉄道なども印象的な情景を遺しています。







(店主注:松・謙氏の語る米国ナローゲージ、いかがだったでしょうか。各鉄道毎に何冊でも本が書けるほどの情報をお持ちの松・謙氏ですが、容量の都合もあり、短めにまとめていただいています。ただし、1回で米国ナローゲージを語るのは余りにも不足なため、このあと3回程度に分けてナローゲージをテーマに執筆していただくことになっています。次回はK-27大集合。最近の製品も交え、かつてGreen River Reportに掲載された以上のK-27群をお見せできる予定です。ご期待ください)