私と鉄道模型の60 年 (5) — 松本謙一  米国型ブラスモデルを探して


■米国型ブラスモデルを探して―――松本謙一(日本鉄道模型リサーチ‐ A.B.C.)


■4つの時代分け



私が明確に意識してブラスモデルを集めるようになったのは14 歳ぐらいからですので、そのあたりからの製品発売状況はon time で米誌の広告などを見てきており、ほぼ頭に入っています。以来45 年ほどの蒐集暦を主たる入手先で分けますと、ほぼ次のようになります。

第1期; 東京や横浜の模型店で入手した時代(~1968 年)
第2期; 関西の模型店で入手した時代(1968 年~)
第3機; 米国から通販で入手するようになった時代(1973 年~)
第4期; 東京の新興米国型専門店などからも入手できるようになった時代(1976 年~現在)

この、私自身の4期の前に「創成期-進駐軍時代」と「輸出への転換期」を付け加えますと、ちょうど日本における米国型ブラスモデルの歴史が描けることになります。私における第1 期から第3 期が日本のブラスモデル輸出の最盛期で「業界第1世代」ともいうべき大手メーカーの社長たちは「日本鉄道模型協会」という親睦会をつくって、隆盛を謳歌していました。

なぜ私の主たる入手先が変わったか、その状況をもう少し話しますと、これも一つの米国型ブラスモデルの供給史になるかもしれません。


■第1 期 東京や横浜の模型店で入手した時代(~1968 年)



日本での米国型ブラスモデルは最初、進駐軍の中の米人モデラー向けにカスタム・メイドを中心とした完全手造りから始まりました。それがやがて日本人にも販売する量産に移行し、サン・フランシスコ講和条約後は熊田貿易のようにそれらを米国に輸出する日本人業者、買い付けにくる米国人業者(この時代の記憶から日本の古い業界人は「インポーター」といわず「バイヤー」と呼んでいました) も現れました。

昭和30 年代初頭まで(~1955) はそうした時代で、米国からの特定形式の注文はまだ、数台のみ完全手造りのものだけで、ほとんどは日本側が広く売れそうなプロトタイプを選んで自主生産していました。カワイの「リオグランデタイプ」や「サウスショアー電機」、「ED14」、つぼみ堂の森林B タンクなどはその時代の典型です。

■カワイモデル製 0-6-0
SOUTHERN PACIFIC 鉄道のHarriman 標準設計0-6-0をモチーフに、プロトタイプどおりの“ ソーセージ・タイプ” オイル・テンダーつきと、フリー・デザイン化した石炭テンダーの2種で発売したもので、おそらく進駐軍関係者から日本のブラスモデルの話を聞いて買い付けに現れるようになったInternational など米国の“ バイヤー” 向けに自主生産したもの。カワイモデルはこのほかにも“ リオグランデ・タイプ” と称するフリー・デザインの2-6-0 や2-8-0、NYC の4-6-2、Chicago, South Shore シカゴ・サウスショアーの凸型電機、真鍮製の米国型貨車やEastern Caboose(Reading 鉄道起源の東部標準型鋼製カブース)といった米国型製品を造っていました。



■鉄道模型社製と思われるキャメルバックB テンダー。昭和25-28 / 1950-1953 年頃の製品と思われます。ごく初期の量産ブラスモデルの一つでレディング鉄道の0-4-0 がプロトタイプ。このような小型スイッチャーが、天賞堂が発売元になっていたニューワンモデルのダイキャスト製C タンクや、ペーパー、木材、ブリキ、アンチモニー、真鍮プレスパーツなど混合のカブース、客貨車などと共に進駐軍関係者や日本人の新興16 番ゲージャーに愛用されました。



■天賞堂製USRA 0-8-0
昭和31 / 1956 年に発売されました。進駐軍関係者あいてのカスタム・メイド、ハンド・メイド中心の時代から、本格輸出に対応できる量産体制に移行した時代の典型です。プロトタイプに忠実、ということが強く意識されるようになり、組立ての構成にも今日まで踏襲される標準が「高級モデル」として確立された時代です。天賞堂の米国型蒸機の魅力である端整で力強いヴァルヴ・ギヤーが既にその萌芽を見せています。しかし、まだ軸箱も軸箱可動も採用していません。



これが昭和35 (1960) 年前後から米国側が特定の実在形式を注文してくるケースに変わっていきました(それでもカツミの「弁慶」や9750、トビーの4030 などが依然輸出されていました) が、そうした輸出用製品も、直営店があるメーカーはその店頭で売っていましたし、また有名小売店、たとえば西荻窪のニットー教材でDM&IR のカブースなどトビー製品、吉祥寺の歌川模型でTAKARA (野沢商店) の客貨車、店名は忘れましたが阿佐ヶ谷の南口にあった教材模型店で鉄道模型社製品が並んでいたり、と、中央線沿線はかなり狙い目でした。

「超」のつく穴場としては札幌は狸小路商店街の中にあった中川ライター店という店に鉄道模型コーナーがあり、そこでTAKARA の古典客車が売れ残っていたのをC62 重連の撮影のついでに買ってきています。銀座の小松ストアー模型売り場にさえUnited- 安達製作所のB-2シェイが並んでいた時代でした。(高くて買えなかったけれど)


■野沢商店の古典客車
立川の楽器店の店主が、趣味が高じて輸出モデルのメーカーとなり、米国でのブランド名をTAKARA と名乗りました。小レイアウト向きの小型機関車と古典的な客車、カブースを得意とし、国内の模型店にも若干卸していました。天賞堂で一時期売っていたペーパー製の手造りストラクチャーも野沢氏の作だったそうです。野沢製の客貨車、カブースは日本型製品がまだプレス押し出し表現が普通だった昭和35 年ごろで、いち早くエッチングを使って高級感を出していました。そのために近年の製品と連結しても違和感がありません。写真のメイル・カーは初めての北海道撮影旅行のおり札幌の狸小路にあった「中川ライター店」で買ったものです。(台車は交換、塗装も変更しています)


■第2期 関西の模型店で入手した時代(1968 年~)



東京における米国型ブラスモデル事情が一気に悪くなったのは東京オリンピックが済み、日本経済がいよいよ高度成長に入ったころでした。鉄道模型業界でも対米輸出は絶好調で、あとから聞いた話ですがどのメーカーも下請けまで総動員しても注文を2年分以上も抱えているような状況だったようです。そういうあおりもあったのでしょうが、天賞堂以外の輸出メーカーの直営店には、盛んに生産しているにもかかわらず米国型製品がパッタと並ばなくなり、穴場だった郊外の模型店にも日本型ばかりが並ぶようになりました。

事実、高度成長期に入って日本型製品も従来のようなショーティーの自由形ものではなく高額なプロトタイプものが急速に増え、回転の悪い米国型などおく必要が無くなった、ということもあったでしょう。たまにあっても、鉄道模型社やつぼみ堂のように「非売品」と称して売ってくれないケースが多く、ずいぶん悔しい思いをしたものです。(その悔しさがその後の蒐集熱のばねになったことも確かですが)

ところが昭和43 / 1968 年の秋に最初の鉄道写真集「煙」を自費出版し、そのセールスのために初めて関西の模型店を歴訪して驚きました。何とそこは米国型ブラスモデルの宝庫だったのです。

まず、つばめ屋へ行きました。そこには店内正面壁一杯のケースの上半分に、つぼみ堂のインターアーバンやらガス・エレクトリック・カー、安達製のHOn3 蒸機やらがぎっしりと並んでおり、もうそれを見ただけで脚が振るえ、商談も上の空になってしまいました。次に行ったのがツカサ模型です。ここはカツミの大型蒸機やらオリオンの客車、カブースなどがズラリ‥

これも後からカツミの先代に聞いたのですが、この当時、米国ではいくらでも売れるのでインポーターの数量チェックが厳しくなった。一方Cal Scale のロストワックス・パーツなどは米国ノインポーターから支給という形で送られてきて製品に付けられて米国に戻っていくので保税扱いになっている。そうはいっても不良品も出るので、数%は予備が着いてくる。それらもあって、数台のオーヴァー・プロダクションが生じることもあるのだが、東京の自店や近郊店に出してもし来日したインポーターやその友人に見つかるとやっかいなので、そういう心配の少ない関西の有力店に特約的に出荷していた、ということでした。

たしかに関西には千利休以来、珍奇なものに惜しげもなく大枚をはたく旦那の伝統があり、東京のメーカー直営店のように自社製品に頼れない分、この当時の関西の模型店にあっては品揃えに貪欲な時代でした。(ちなみに日本型特製品も同じ理由で関西から盛んになりました)


■第3期 米国から通販で入手するようになった時代(1973 年~)



こうして何とかさらなる米国型ブラスモデルを入手できるスポットを確保したものの、どうしても国内で入手できない「日本製ブラス」がありました。それが「United ユナイテッド」製品です。埼玉県川口市にあった、このメーカーだけはオーナーの三成氏が発注元のPacific Fast Mail(PFM) 社に忠誠を尽くしており、国内のいかなる販売店とも取引を持とうとしなかったのです。たまにどこかの小売店にギヤード・ロコなどが1台だけ出ることがあったようですが、そういうのは社員が密かに余剰パーツなどを持ち出して内職的に組んだ物だったという様子があとから知れました。

そういう情報を聞きつけてその店に飛んでいっても、もとより裏商売ですからさほど親しくない店主はとぼけるばかりで、模型業界の裏世界にコネを持たない(意外でしょうが今でもほとんど持っていません) 私は臍を噛むばかりでした。竪型ボイラーやT 型ボイラーのクライマックスA や世界最大の林鉄マレーであるWeyerhauser Lumber #201 など、従来のトビー製とは異なる無名メーカー(のちにのTOHO MODEL と判明) によるNorthwest Short Line(NWSL) 製品など国内には伝手の見つからない輸出メーカーも登場し始め、国内での入手には限界を感じ始めた私に大きな転機をもたらしたのは1972 年に平井憲太郎氏と出かけた西欧撮影旅行でした。

現地で入手した鉄道趣味誌に、何と欧州でありながら米国型の専門店の広告が2軒も出ていたのです。1軒はパリ市内、もう1軒はチューリッヒの郊外でしたが、共に日本製のブラスモデルから米国のバスウッド・ストラクチャー・キット、果てはパーツまで揃えていたのは衝撃的でした。(日本で「さかつう」や「新額堂」が開店するのは、これから数年後で、この訪欧当時はまさに夢の模型店に迷い込んだ気分でした)。そしてチューリッヒ郊外のOld Pullman (菓子工場の地下で週末だけ開いている秘密組織のアジトみたいな店でした) で念願のユナイテッド製品、クライマックスC を入手したのでした。

この経験から、国内で偶然に頼って駆けずり回っているより、米国で確実に在庫を持っている模型店に注文した方が欲しい形式がきちんと手に入るのではないか、と考えるようになった私は遂に(というほど大げさな話ではありませんが) 大手銀行の外為窓口に行って海外送金の方法を教えてもらい(これがまた当時は結構大変でしたが、その話はまた改めて) 米国の模型店から通販で購入するようになったのでした。その第1号はユナイテッド製D&RGW 鉄道のL-131、2-8-8-2 でした。

ここから機関車にしても客貨車にしても計画的な集め方がやっと可能になり、ようやく、小学校の頃からMR 誌やクラフツマン誌の広告写真を指を咥えてみていた欲求不満が解消し、写真集の気に入りの写真にある編成を模型で立体化する、という夢の実現に歩みだすことになりました。

永らく日本国内では買えなかった日本製ブラスモデルがPFM-United 製品。名設計家、酒井喜房氏の手がけたものが多く、写真で見るだけでも溢れるような魅力が伝わってきたものです。その一つ、CLIMAX C を1972 年にヨーロッパに撮影旅行した際、スイスの米国型専門店でついに入手しました。写真がその思い出のモデル。おかげで旅費が乏しくなり、実家に国際電話を掛け、たまたまスイスへ来る知人に現金を届けてもらいました。クレジット・カードもファックスも、まだ無かった時代です。




■第4期 東京の新興米国型専門店などから入手できるようになった時代(1976 年~現在)



昭和50 / 1975 年の12 月に自ら月刊「とれいん」を創刊しました。当時、TMS 誌には往年と打って変わって米国型関連の記事がほとんど載らなくなっていました。

そこで恒常的に米国型の実物と模型製品の紹介記事を載せるようにしたところ、それに呼応するかのように東京では天賞堂以外にしばらく姿を消していた米国型を積極的に扱う店が現れました。その筆頭は「さかつう」で、ブラスモデルあり、米国のウオルサーズ社から直輸入するプラスティック貨車ありキャンベル社製品などストラクチャーのクラフト・キットあり、ディカールやパーツあり、と数年前にパリやチューリッヒ郊外で見た「夢の米国型専門点」が遂に日本にも実現したのでした。

続いて「アサヒホビー」、「ムサシノモデル」、「ピノチオ」、「新額堂」、「モデルキングダム」など、米国型のブラスモデルを扱う店が次々に現れ、また天賞堂もユナイテッド製品やフジヤマ製品の国内販売を始め、カツミ、水野製作所、中村精密、熊田貿易なども輸出向け製品の国内販売を行うようになりました。

これに、次回お話しする韓国製ブラスモデルが加わり、大変にぎやかな時代が到来しました。いまから振り返ると1980 年代前半がその絶頂期であったように思います。そのあと日本メーカーのアメリカ市場からの撤退、韓国製ブラスモデルの完熟期、と続き、ここ3年ほど、韓国の人件費高騰と米国インポーターの老齢化、DCC の流行による中国製ギミックつきダイキャストあるいはプラスティック製品のラッシュでいよいよ手造り性の高いブラスモデルは生産の灯火がか細くなったように見えます。

しかし、すでに数千種におよぶ製品が発売され、かなりマイナーなプロトタイプまで製品化が及んでいるアメリカ型ブラスモデルの世界。いまでも縦横無尽な組み合わせ、多岐なジャンルでの追求が可能ですから、これからがむしろ、私を含むモデラー側がそれをどこまで、どう楽しんで見せることが出来るのか、という問いを突きつけられている、と私は考えています。

東京オリンピックの頃(私の中学生当時)の米国Model Railroader 誌の裏表紙を飾った輸出専門メーカーAKANE の広告。中にもGEM、United など、「日本で買えない日本製ブラスモデル」の広告がひしめいており、憧れと悔しさでしばしば夢にまで見るほどでした。AKANE のオーナー、関野氏はこのわずか数年後、日本の競馬史上最初の三冠馬「アカネテンリュー」の馬主となります。昭和40 年代がメーカー数、生産台数では日本の輸出用ブラスモデルの絶頂期でした。