私と鉄道模型の60 年 (7) — 松本謙一  お気に入りのミカドたち


■ミカドの魅力―――松本謙一(日本鉄道模型リサーチ‐ A.B.C.)






■「Mikado」の誕生



この米国型ブラスモデル話では、いままで主に製品の生い立ち、歴史について語ってきましたが、今回は趣を変え、プロトタイプの形態論から製品に迫ってみたいと思います。



蒸気機関車の出力を左右する要素はいろいろありますが、決め手になるのはやはり火室の底面積、すなわち火格子面積でしょう。これが小さくては、ボイラーの他の部分をいくら大きくしても十分な蒸気の発生量を得ることが出来ませんので、持続的な出力は作れません。そこで火格子面積はなるべく大きくしたいのですが、前後方向は人力投炭の時代、遠くへ放れる限度というものがありますから、大きくするなら横幅です。しかし、この横幅にも、左右に控えている動輪に当らない、という制約があります。動輪の上に火室を重ねるとなるとボイラー中心が相当に高くなってしまって最大高さも重心も上がってしまいます。



ロシアのようにトンネルがほとんど無い、急カーヴもほとんど無い、という国情や、入換など低速運転専用ならそれでもいいのですが、それでも限度はありますから、最初のうちは世界のほとんどの機関車は、「狭火室」といって、動輪の間、正確には主台枠の間に火室の火格子部分を落とし込める範囲で我慢をしたわけです。「狭火室」の断面は「鍵穴型」といえば,わかりやすいでしょうか?



これに対して,「広火室」というのは,火室の幅が動輪のバック・ゲージより広い,裾拡がりのものを差します。(米国東部で一時流行した、運転と投炭を分離の「キャメルバック型」は低質炭対策として特大幅の広火室を動輪上に載せるための窮余の一策でした)



しかし時代が20世紀に近づいてきた頃になると、客貨車も次第に大きくなってくる、編成も長くなってくる、スピード・アップも要求される‥と、「狭火室」機関車では対応に限界が出てきます。「これ以上に火室を拡げるには広火室しかない!」



広火室を採用したいために、動輪より後ろに火室を置いた例はそれまでも低質炭地域の鉄道向けでは例がありましたが、それはごく小型の機関車であって、大きな広火室を動輪の後ろに出したらオーヴァーハングが大きくなってしまってキャブの横動)はひどくなり、運転にも投炭にも支障をきたしますし軸重のバランスも悪くなります。



そこでようやく「従輪で火室部分を支えれば火格子面積も思い切って拡大でき,軸重も横動も制御できる」というトライに行き着きます。まず大動輪化でのスピード・アップと蒸気発生量の増大による牽引力の持続が求められる4-4-0から4-4-2が生まれました。



「従輪」という考え方はむしろヨーロッパの方がはるかに先輩で、スティーヴンソンの「ロケット」ですら従輪を持っていたのに、19世紀に2軸先台車の普及では先鞭をつけた米国が従輪の採用に対しては「奥手」だったのは、今から思えば何かおかしいようです。



一方、貨物用機関車への時代の要求ですが、こちらは19世紀末には2-8-0が重貨物用の定番として世界的に普及していました。これは動輪直径が比較的小さいので広火室でもなんとか動輪上に載せられる、ということで「貨物用機関車に従輪」という関心は米本国で払われなかったのですが、ここに日本という太平洋の彼方の島国から日本鉄道という私鉄が「石炭輸送の重牽引に使いたいのだが当鉄道の沿線で採れるのは低質炭なのでそれで出力を得られるものをお願いしたい」という注文をBaldwin社に持ち込みます。



ここでBaldwinは旅客用の4-4-2とセットで、2-8-0に従輪を加えた2-8-2を提案してきます。 それまで小鉄道でバック運転の安定のために従輪を加えたような2-8-2は単発的に存在しましたが、明らかに火室の大型化を目的とした2-8-2の、しかも一挙20台という注文は初めてでした。納入は1897/明治30年。同時に日本最初で最後の4-4-2軸配置も24輌、これも広火室で納入されます。国有後の9700形と6600形です。



そのころ米国の鉄道界では蒸機の軸配置の様式に数字標記以外に発声に簡便な固有名称をつける習慣が生まれておりました。4-4-0は2軸先台車をアメリカが普及させた、というので“アメリカン”、2-6-0は「大立者」を表す“モガル”、4-6-0、4-8-0、0-8-0はそれぞれ車輪数に因んで“テンホイーラー”、“トゥウェルヴホイーラー”、“エイトホイーラー”、2-8-0は最初に採用した鉄道が合併で出来た新会社だったので“コンソリデーション(合併)”、4-4-2は1894年にBaldwinが広火室で造った最初の試作機をAtlantic Coast Line鉄道が採用したので“アトランティック”、といった具合でした。



「2-8-2は何と命名しよう?」とBaldwin社のスタッフは智恵を絞ったのでしょう。2―8―2軸配置自体は当時すでに存在しており。1893年にBrooks社がChicago & Calumet Terminal 鉄道に納入した4輌にちなんで“カルメット”タイプと呼ばれていましたが、まだ広く通用しておらず、また設計自体も広火室を支えるためではなくバック運転の横動防止が目的でした。Baldwinとしてはこの際、「広火室を完全に動輪の後ろへ置き、従輪が支えた新機軸の2-8-2」という意味での宣伝的な名称をつけたかったのでしょう。



ちょうどそのころ、米国では1885年初演のオペラ、「Mikado」が広く知られるようになっていました。「日本の皇帝、という意味だそうだ!モガル(大立者)の上を行くな!日本に最初に納めたのだから、それで行こうじゃないか!」というような会話があったのか、どうか。とにかく「それはいい」ということで、2-8-2軸配置の呼称は日本には光栄なことにMikadoとなったわけです。



しかし、その後もしばらく米国自体では2-8-0への需要が続きます。中で例外として特筆すべきはDenver & Rio Grande鉄道が1903年、3ft.ナロー・ゲージ線の勾配区間用としてBaldwinに15台を一気に注文した125-N形でしょう。Baldwin社の技師の一人、Samuel Vauclainが1889年に考案し特許を取ったヴォークレイン複式シリンダーを持っていました。これがのちにDenver & Rio Grande Western鉄道で単式シリンダー+ワルシャート式ヴァルヴ化されて米国ナローファンには有名なK-27クラスとなります。



スタンダード・ゲージの大鉄道で最初に主力機として大量本格的に2-8-2の採用したのはNP(ノーザン・パシフィック)鉄道で、1904-1907年にBrooksからWクラスとして1形式で160輌を入れました。



それ以外の大鉄道で「Mikado」の採用が始まったのは軒並み1910年以降です。それ以前ではAT&SF(サンタ・フェ)鉄道が1902年にヴォークレイン複式の効果を見るために15輌入れたものの、その後は永く中断しました。CMSt.P&P(ミルウォーキー)鉄道のみは1年早い1909年ですが、あとは以下の通りです。(字数の関係で鉄道名はすべて略称にします)



AT&SF 1913(再開 / B&O 1911 / CNR 1913 / CPR 1910 / CNJ 1918 / C&O 1912 / CB&Q 1910 / CRI&P 1919 / NYC 1912 / PRR 1914 / SP 1911 / UP 1910






■UP MK-6



 ユニオン・パシフィック鉄道のミカドは鉄道王エドワード・ハリマンが同鉄道とサザン・パシフィック(SP)を同時に傘下に収めた1900年代初頭、彼が2鉄道を中心に傘下の鉄道に使う機関車、車輛、鉄道施設を共通規格設計にすることで新造費を合理化しようと試みた中から生まれた。この独自規格をハリマン・スタンダードと呼ぶが、その客車と共通した深い屋根Rのキャブは両鉄道に蒸機新造の最後まで伝統として残った。実務としても、1925年の3シリンダー4-10-2まで、両鉄道は共通の基本スペックで姉妹のような機関車を造り続けている。ハリマン・スタンダード設計の最初のミカドは1910年にボールドウインから納入されたUPのNo.2100で、UPではこれをMK-1クラスとして、以後年々ボイラーを大型化しつつ1921年のMK-10まで増備を続け、20台のU.S.R.A.Light(MK-splクラス)を含め427台のミカドを保有した。

 63インチ動輪を使用したのは1911年のMK-3からで、この写真のモデルのプロトタイプであるMK-6は1914年にライマ社から本社線にNos.2245-2259の15台、アルコ・スケネクタディーとボールドウインからが計8台が子会社のロス・アンゼルス・アンド・ソルト・レイク鉄道にNos.2700-2708として納入されている。同じ年、SPも同じライマからMK-6として20台を購入している。ハリマンの没後だが、“スタンダード”の協調精神は健在だったようだ。ハリマン・デザインのミカドの特徴は他の多くの鉄道のミカドに較べてサンド・ドームが小振りなことで、これがさらにUP機となると、この鉄道好みの延長型煙室、屋根Rの深いキャブに十字格子窓、という造作と相俟って、大変背高な、そして実制作年代より古い香りのする独特の雰囲気を漂わせる。

 UPは本社線の他に3つの子会社があり、機関車もそれぞれの車籍、番号帯に分けられたり、それがまた移籍したりで、その間にサンド・ドームの数や煙突の変更、テンダーの振り替えなどが加わり、「これが標準スタイル」とは、なかなか決めにくい。写真のモデルはバルボア社が1967-71年にカツミ模型店に造らせた製品。UPのハリマン・ミカドの中でも、最も堂々と見える造作の組み合わせを選んでいるように思う。大型スノー・プロウ付きで発売された製品は少ないので、その点でも印象的な製品である。カツミ模型店はその後、3つのインポーターと組んだが、そのいずれもこの製品は再生産を発注していない。



米国において「Mikado」の勢力を一挙に拡大したのは、1914年7月に始まった第1次世界大戦でした。米国は1917年4月になってようやく参戦しますが、たちまち東部海岸へ向けての戦時輸送に線路容量の不足、車輛の不足を生じます。これを短期間に解決するため時のウィルソン政府は鉄道管理の国家一元化を実施し、the United States Railroad Administration(合衆国鉄道行政局)、略称U.S.R.A.を発足させました。ここで、部品の共通設計化で生産期間を短縮し部品備蓄も合理化できる規格設計機関車のデザインが策定されます。先行して共通部品を造っておき,短気短期で優先度の高い軸配置をそれから組み上げていく,という,いわば,レディー・メイドの発想です。



これによって,製作期間をなるべく短縮し,納期と共に工場の回転率も上げようと考えたわけですが,蒸気機関車時代の米国の機関車新造は,鉄道各社の自主独立の気風から,それぞれの鉄道が独自に仕様を決め,メーカーに発注するオーダー・メイドが原則でした。産業用機関車以外は小鉄道といえども自社オリジナルとして設計されることにこだわったので,そうした伝統から見れば,このU.S.R.A.の試みはまさに驚天動地,破天荒な改革でした。(機関車の設計がレディー・メイド原則に変わるのはディーゼル機関車からです)



0-6-0から2-8-8-2まで12種の標準デザインが用意された中で2-8-2については「Light」」と「Heavy」の2種が策定され、なかでも「Light Mikado」は12種中最大の625台(第1時大戦後の各鉄道による自主増備を含めると1266輌)が、「Heavy Mikado」も233台が戦時中に造られました。これらU.S.R.A.標準機の最初の発注は1918年4月30日になされましたが、最初の落成機も「Light Mikado」で、わずか2ヵ月後の1918年7月1日には第1号機がB&O鉄道4500号機としてBaldwin社から出場しています。(この機関車は今日BaltimoreのB&O鉄道博物館に屋外展示されていますが,試作的なものであったためにキャブの屋根断面がその後の量産U.S.R.A.デザインと1輛だけ異なっています。PFM-Unitedの「U.S.R.A. Light Mikado」初版と同「Light Pacific」はこのB&O No.4500のキャブで造られています)



U.S.R.A設計は大変優秀で米国の蒸気機関車設計の近代化に大きな貢献を果たしましたが、なかでも「Light Mikado」と「Light Pacific」は初めて近代的な蒸機を扱う鉄道にも使いやすいものでした。この2タイプは南部の鉄道に多数割り当てられ、南北戦争における北軍の破壊からなかなか立ち直れず、近代化の遅れていた、この地域の幹線輸送力を一挙に復興しました。






■WP MK-60



 ウエスタン・パシフィック(WP)という鉄道は、西部の幹線鉄道としては大変規模の小さいもので、歴史も、全通が1909年と、後発であった。バーリントン鉄道(CB&Q)とリオ・グランデ・ウエスタン鉄道(D&RGW)が、自社の貨物をサン・フランシスコへ出そうとすると、ソルト・レーク・シティーでUP、SP連合に差別的な扱いをされるのを嫌って、独自に太平洋岸へ出られるルートが必要、という判断から後援して出来た鉄道で、沿線には大量の貨物を出す産業も特段無く、輸送量は連結するリオ・グランデ・ウエスタン次第。したがって機関車の所帯も小さかった。

 ただ特徴は、SPが2~2.4%の勾配でしゃにむに越えていたシェラ・ネヴァダ山脈を北方に150マイルも迂回することで、全線の勾配を1%以下に抑えていることで、これによって運行経費の面で有利に立つことができた。

 このような線型であったので、主力として愛用されたのは当初は2-8-0であり、続いてはヘヴィー・ミカドであった。しかしその増備も5、6輛ずつの逐次で、1918年から1929年まで掛かって、ようやく31台に達したに過ぎない。その内訳も自社発注あり、U.S.R.A.規格機の中古購入あり、だったが形態的に特筆するものは無かった。ロット毎に設計は異なるのに形式は一括して“MK-63”と、これも米国には珍しく大雑把である。しかし最後2回の増備となった1926年製のNos.327-331と1929年製のNos.332-336はさすがに機関車メーカーの特級ブランド、アルコ社スケネクタディー工場製だけあって、威風と均整を見事に両立した傑作であり、へヴィー・ミカドの真髄を見せつけられるような想いにとらわれること必然である。

 突き出した煙室からいきなり特太のボイラー、煙突前にはエレスコ式給水予熱器がなかば煙室に埋まるように横たわり、大振りで角張ったキャブの下にはブースター付のデルタ式従台車、きっぱりと角張ったテンダーをコモンウエルスの3軸台車ががっちり支え、“たくましさ”を凝縮したような姿である。しかし、たった10台、しかも人煙稀な砂漠とシェラ・ネヴァダ山中に生涯を送ったこの一群の存在を米国の蒸機ファンに知らしめたものは日本製のHOモデルだったのではなかろうか? それがこの写真の、PFM-ユナイテッド製WP MK-60である。1967年に新発売となり、以後1968、1971、1974、1978、1980年と再生産を繰り返し、合計1990台以上が米国市場に送り込まれた人気製品である。ウエスタン・パシフィック自体は米国全国規模ではマイナーで、プロトタイプも決して有名、というわけではなかったが、その模型としての好ましさが特定の鉄道にこだわらない層のモデラーに「ヘヴィー・ミカド」のイメージとして受けたのであろう。

 それにはプロトタイプの均整もあるが、模型化に当ってのセンスの良さも大いに働いたはずである。設計は戦前からモデラーとして活躍し、雑誌編集も手がけ、TMS誌創始者の山崎喜陽氏が「自分の鉄道模型の師の一人」と認めていた酒井喜房氏である。ユナイテッド-アトラス工業が自社工場を持つに当って主任設計者として招聘された酒井氏はユナイテッドの量産製品の中に数々の名作を遺しているが、その中でも“WP 2-8-2”は傑出しており、酒井氏自身、生前私に「WPのミカドは自信作」と語っていた。1968年製からカウキャッチャーがロストワックス製、煙室にリベットがつき、1978年製からキャブ・インテリア付、罐モーター吊り掛けとなっている。これだけ大量に供給されたのに近年なかなか中古市場に姿を見せないモデルの一つ。一度持つと愛着が深まって、手放す人が少ないのではなかろうか?




■63インチ動輪が決め手-米国Mikadoの形態論



さて、1904年のNPのWクラスからU.S.R.A.の「Light」「Heavy」両Mikadoまで、米国の幹線鉄道が保有したMikadoのほとんどは動輪直径が63インチ、約1,600mmです。中には61インチ、64インチという例外もありますが、これも“63インチ級”に入れてよいでしょう。この63インチ動輪はスピードと引張力のバランスにおいて傑出した寸法であるらしく、1930年代、40年代に中速重牽引用として続々と生まれた単式連接の2-8-8-2、2-8-8-4も軒並みこの寸法の動輪を採用しています。(低速重牽引に一部の鉄道が愛用し続けたマレー複式は56-58インチ動輪が多い)



事実、どの幹線鉄道でも63インチ動輪のMikadoで“失敗作”というものはなく、ほとんどの鉄道で中堅機として蒸機使用の最末期まで活躍しました。



いずれの幹線鉄道のMikadoも63インチ動輪の上に、あるものは煙室前面から特太、あるものは猫が背をそびやかしたようなワゴン・トップで、量感たっぷりのボイラーを載せ、動輪はむしろ小さめに見えます。(しかし、それが日本へきたC52と同じ動輪径なのです。 米国のスタンダード・ゲージの機関車がいかに大きいか!)それでいて縦横の寸法バランスが危な気ない。さらには、テンダーが長くても短めでも、それなりに均整が取れてしまうのが63インチ動輪Mikadoの不思議さです。



63インチを大きく越える直径の動輪を持つMikadoというのもほとんど造られませんでした。私の憶えている限りではGN(グレート・ノーザン)のO-7、O-8クラスの69インチ動輪ぐらいですが、1軸先台車からいきなり69インチ動輪となると、ちょっと腰高感は否めません。



形態面から見てもMikadoはバランスが絶妙の軸配置です。これが4-8-2となるとボイラーが長くなる分、スポーティーさが出てきて、罐格は上がるのに獰猛さは薄れます。63インチ動輪のMikado、というのは、恐竜に喩えるならばティラノザウルスのイメージがありますね。ティラノの、引き締まった体躯,額の広く大きい顔と短めの脚、という組み合わせが太い煙室正面から見た63インチ動輪Mikadoに重なります。

■AT&SF Class 4000



 アチソン、トピーカ・アンド・サンタ・フェ鉄道、通称“サンタ・フェ”のMikadoの最終形式。サンタ・フェ鉄道の63インチ動輪“ミカド”は1913年製の3100クラス29台に始まり、1916年の3129クラス30台、1917-20年の3160クラス128台、と増備が続き、1921ー26年の4000クラス101台で止めを打った。製造はすべてボールドウイン社で各クラス間に見られる大きな違いは3000番台クラスがホッジス(Hodges)式と呼ばれる少し古い様式の従台車を持っているのに対し、4000クラスは近代的なデルタ(Delta)式従台車に変わっている点のみ。

 いずれの形式も共通に平坦区間を主な働き場所にしたが、形式の別なく、サンドドーム1個の罐と2個の罐、テンダーに12,000ガロン型と15,000ガロン型の2種が存在する。またシカゴ―カンザス・シティー間に働いたものは石炭焚きとなっていた。サンタ・フェ蒸機に共通する獰猛な面構えが凝縮され、ボイラーもミカドゆえの長さでワゴン・トップの大きなふくらみが強調されて見える。

 このモデルはキー・インポーツ社が1989年にサムホンサに造らせた塗装済み完成品をウエザリングしたもの。このときは同時に3160クラスも造られ、テンダーも機番によって12,000ガロンの石炭、重油、15,000ガロンの重油を造り分けて発売、乗務員籍を増やすために延長改造したキャブで製品化された。原型キャブでは古くはPFM+トビーをはじめ、インターナショナル+タカラ(野沢商店)、MBオースチン+鉄道模型社(?)、韓国製の登場以後ではホールマーク+ドンジン、サンセット・モデル+サムホンサが手がけている。サンタ・フェ蒸機は伝統としてロッド類の側面を白く、間接部を黒く塗装していた。これは亀裂に油が溜まることで発見を早め、折損の危険を未然に防ぐためであった。製品のロッドを一度外してこれを塗り分け、白部に薄く油の色を刷くと、一段と見栄えが上がるので薦めたい。



これに比べるとヨーロッパのMikadoはボイラー径に対して動輪径の比率が大きく、ちょっと軽薄な感じを私は受けます。模型的感覚かもしれませんが、何か上回り軽くて空転を起こしやすそうな心もとなさが付きまとうように見えます。(私にはわがD51もそう見えます。嫌いではありませんが、空転しないぎりぎりのところでかろうじて踏ん張っているような健気さを覚えてしまいます)私の個人的見解ではMikadoの好さはあくまでもボイラーの量感から来る安定感にあると思うのです。



太平洋戦中は米国の鉄道関係者の間で「なにも敵国の皇帝への尊称を使うことはないだろう」と、Mikadoに替えて、頭文字が同じ「M」で始まる「MacArthur」の愛称が流行しました。特に米陸軍鉄道輸送部隊では海外の3ft~1mゲージ用に急造した軽量2-8-2を「マッカーサー・タイプ」と呼びました。しかし、自社の形式名にMikadoの略で「MK-」を当てていた鉄道で、それまで改変した例は無く、戦争が終わるや軸配置呼称「Mikado」は復活して、日本社会では戦後ほとんど死語と化した(赤坂ではキャバレーの名前にまで貶められました)「帝(みかど)」は、皮肉なことに米国の鉄道書に生き残りました。「Mikado」からさらに愛称化した「Mike」(マイク)という呼び方もよく使われています。(「Macは鉄道界に生き残れず,ハンバーガーに拾われたのだった」と書いている本があります)






■模型的に見た米国型Mikado



私が「とれいんギャラリー」をやっていたころ、「米国型で1軸従台車の蒸機は日本の米国型ファンに人気が無い」ということを実感しました。いくつかの米国型に力を入れる模型店でもそういっていましたし、「とれいんギャラリー」自体でもそうでした。超大型蒸機に惹かれて米国型ファンになる人には2軸従台車でないと米国型らしくない、という感覚があったようです。



しかし、機関車審美論において臼井茂信氏とともに巨星であり、世界の蒸気機関車を正確なプロポーションで絵に描いた黒岩保美氏は生前、「私は2軸従台車というのは、どうも電気機関車のようで好きになれない。存在感が重たすぎるように見える」、「蒸機はやはり1軸従台車がすっきりしていて上品だ」と語っておられました。



罐の好みはもちろん人それぞれですが、私も年とともに黒岩さんの言われたことがしみじみ判るようになってきました。1軸従台車を持つ足回りの方がシルエットの切れは美しいのです。均整美、ということでは4-6-2と2-8-2は、やはり一番落ち着いた佳さを醸し出すようです。






■NYC H-5p



 NYC―ニュー・ヨーク・セントラル鉄道も蒸機の模型となると日本では流線型ハドソン以外さっぱり人気の無い鉄道だが、じつはNYCの蒸機はその設計のバランスの細やかさでは他に例を見ないほど周到な計算が施されており、仔細に味わうと「蒸機のF-1じゃ!」と叫びたくなるほどの獰猛なマシーンであることが見えてくる。

 NYC蒸機のデザインの特徴は、火室の肩に対してキャブを極端に沈み込ませていることにある。これはハドソン河沿いのメイン・ルートに河岸の断崖を縫うトンネルが多かったことで、建築限界が低く抑えられていたことに発しているが、野放図に凹凸をつけない、というNYC機関車設計陣のセンスが独特の機関車美学を作り上げていたともいえよう。それは一種の流線型効果ももたらしていたはずである。この伝統のなかから名機NYCハドソンが生まれてきたのである。

 そういう観点で、1910年代にこの鉄道が生み出したパシフィックとミカドを眺めてみると、太いワゴン・トップ・ボイラーの陰に沈めたキャブが、あたかもレーシングカーのカウリングの中に潜り込んだレーサーをイメージさせられる。その伊達ぶりがNYC蒸機の真髄なのである。NYC蒸機は決して“地味な罐”ではない。

 米国で最も多くミカドを保有した鉄道はどこかといえば、実はNYCなのである。その数、1,387台。子会社のボストン・アンド・オーバニー線以外には幹線上に目立った勾配区間を持たないNYCがミカドの最大保有者であった、ということは、米国にあっては、ミカドは決して“勾配用”の軸配置ではなく、むしろ平原部の重牽引用、と意識されていたことを裏付けている。事実、平坦区間で63インチ動輪のミカドが単機で80輛からの貨車を牽いている写真を見たことがある。スピードさえ構わなければ、そのくらいの粘着力はあったのである。

 写真のモデルにしめすH-5はNYCの1,387台のミカド中、最大の641台という勢力を持った形式である。この形式は全機が新製ではなく、多くはG-5という車齢わずか4~8年の飽和式コンソリを気前よくつぶし、わずかに動輪、先台車程度を活かして1912年から造り始めた、名目上の改造機である。形式はロット毎に細分され、1912~1924年にH-5a~vが造られた(179台は完全新造機)がキャブ窓の数とテンダーの長短以外には基本的な差異はない。写真の製品はキー・インポーツが1991年に、いまでは天賞堂の専属工場になっているSKIに造らせ塗装済みで発売したH-5pである。このとき同時にB&A線用のH-5j、通商“ビッグ4”線用のH-5sが4軸テンダー付で発売されている。

 H-5の後継形式としては重量とシリンダー直径がわずかに大きいだけのH-7クラスが1912、13年と1920年に130台造られ、こちらもH-7a~eに細分されている。このうちH-7eはオーバーランド・モデルズがアジンに造らせた1990年の製品がテンダーの長短、キャブ窓の数の違いで3種、未塗装と塗装済みノー・レタリングで出ている。



模型の運転面でも、63インチ動輪のMikadoは運転しやすい機関車です。大概のものは650Rを楽に通過しますし、バック運転にも脱線しにくい。重量も動輪上に集中しやすいので、製品のままでも大きな牽引力を発揮します。平坦線で750Rならプラスティック製の貨車40-50輌ぐらい楽に牽くでしょう。



先にも述べましたように、米国の大概の幹線鉄道は63インチ動輪かその前後のMikadoを保有していました。有名な大規模鉄道でMikadoを1台も保有しなかったのはBoston & Maine、Delaware & Hudson、Western Marylandなど数社に過ぎず、ミシシッピ以東では地方鉄道、地域鉄道の多くにもU.S.R.A. Light Mikadoとそのコピーが入り込んでいます。従って、HOのブラスモデルの中にも製品は枚挙に暇がありません。



試みに2-8-2/63インチ動輪で米国型ブラスモデルのガイドブックを検索してごらんください。製品になっているものだけでも驚くほどの形式、形態があることが判るでしょう。そういうテーマでのHOコレクションもまた面白いのではないでしょうか?